2/20/2015

夕方の長い散歩

Zama, KN


・2月20日金曜日#2

 座間を「Zama, KN」と表記するとどこかアメリカの田舎町のような印象になって、そんなところも座間を好んでいるひとつのささやかな理由かもしれない。ちなみにKNは神奈川の略。カリフォルニアをCA、ニューメキシコをNMと略すように。
 この町は坂が多かったり他にもいくつかの言葉にしづらい特徴があって、散歩して回るのがおもしろい。今日はなんとなく頭が煮詰まっている感じがあり、夕方にまずいつもの公園まで歩いた。昨晩からずっと頭の中で流れているsugar plantの『rise』という曲があり、きっと今日それを散歩中に聴くといいと思ったのでイヤホンを上着のポケットに入れて出た。我が家自体が割と高台にあるので、近所をすこし抜けると一気に景色が広がる。今日も遠くに見える山並みがきれいで、もうすこし暖かくなったら山歩きに行こうと思っている。その山に雲間から日が差していた。先の日記に書いた『rise』の歌詞の日本語訳にある「光を求めて上昇して 私は私を証明する」というフレーズを思い出す。公園の山道を抜けて見晴らしのいい高台のベンチに腰掛け、ここぞとばかりにiPhoneにイヤホンを繋ぎ、その一曲を流す。リピートにしてその一曲だけを聴き続けた。日本語訳のフレーズをまた思い出していた。
 何回リピートされた頃だろうか、再び歩き出してからは駅の横を通り抜け、更に普段あまり行かない方面まで足を伸ばしてみた。ちょうど夕方5時頃、駅の周りには会社や学校帰りの人が行き交っていた。そしてそれは同時に、夕日が沈んでからの穏やかできれいな時間の始まりでもあった。線路と畑の間の道路を歩き続け、適当なところで曲がって住宅地へと続く坂道を登っていく。初めて歩く道だが、きっといい道だという感じがあった。住宅地を抜けていく、その町の人々の生活が感じられる道、という意味で。暗くなり始めた夕方は余計にそんなふうに住宅地に独特の魅力を漂わせる。生活の気配、匂いとでも言えるだろうか。もっとも、あの時間帯に今日の気分で歩いていれば、どんな道でも気分よく進んでいけたようにも思う。
 住宅地の脇に更に高台へと続いていくような脇道があったので、迷わずそっちを選んだ。金属バットで野球の球が打たれる音が聞こえた。あのカキーンという音は久しく聞く機会がなかったので、なんとなく懐かしさを感じながらその音がする方へ歩いて行った。雑木林の向こうの方から音が響いてくるが、その向こうは遠くの街の明かりが見えるだけだった。更に歩いて行くとその雑木林の向こうが谷になっていることが分かり、その下に野球のグラウンドが見えた。中学生くらいの男子数人が放課後の遊びに興じているらしかった。いかにもその年頃の男子というような彼らの楽しげな雄叫び声が微笑ましかった。そんなふうに高台へ歩き進めた末に、ぼくの目の前にはポコポコと小高い丘が二つ三つ現れ、近くの看板を見てみるとそれは古墳だということがわかった。古そうな石造りの簡素な階段を上ってその丘の頂上へ行くと石碑らしきものがあり、そこはたしかに何かなのだとわかった。ただもうその頃には大分暗くなってきていたし、詳しい説明には目を向けずに、遠くの山々をもう一度ぼんやり眺めた。眺めのいい場所にさえ来られたらよかったのだ。
 イヤホンからもう1時間以上ずっと小さくリピートされ続けている曲の音量を上げて、階段の一番上に腰掛ける。そうしているとあまりにもどこかで感じたことのある感覚が湧き上がり、すぐに思い出したのは愛知県の実家の近所にある墓地内の、長い階段の上に座っているときのことだった。墓地といっても平和公園と呼ばれる広大な面積の集合墓地で、まだぼくがスポーツ少年だったころはその階段でトレーニングをしたり、犬の散歩でもよく通った場所だ。長い階段の一番上では腰を下ろしたくなる癖があるのかもしれない。高校や専門学校に上がってからは、青くセンチメンタルな気分をその階段の上へ持ち込んで、遠くに焼けていく夕日を見たこともあったのではなかったか。
 階段の下を芝犬を連れた女性が通った。そんなことを思い出しているときだったので、どうやってもその映像は母親と実家の柴犬よねの散歩姿と重なり、すっかりティーンエイジャーとして過ごした青臭い日々を思い出す時間になってしまった。ぼくは生まれ育った愛知県春日井市にある小さな住宅地が大好きなのだ。この階段を降りて実家へと続くあの緑道を歩くことができたら......なんて束の間の妄想が頭を過ぎった。
 ただ、それは嬉しいことだった。微笑ましく、同時に多少のセンチメンタルな気分を伴いながら思い出すことのできるあの日々が確実にあったということ。その中で、ぼくはどんな顔をして暮らしていただろう。その時のぼくは26歳という年齢をどうイメージしていただろう。今ぼくが彼に会ったら、どんな話をしてあげられるだろう。胸を張って真っ直ぐ目を合わせられるだろうか。まるで、意識の中に新たな指針が設けられたような気分だ。あの頃の日々に、そしてあの日のぼくに背中を押されたような初春の夕方。イヤホンはもう外して、家へ続く道を探しながら歩いた。